早苗A

 「う」と、早苗は思わず声を漏らした。暦の上ではもう春だと言うのに、開けた引き戸から入ってくる空気はまだ冷たい。三月初めの早朝、空はまだ暗い。掃除などさっさとやるに越したことはないな、と思いながら早苗は薄闇の境内に歩み出た。巫女装束の上に毛織の羽織を着てはいるが、足元は足袋に草鞋、冷たい竹の箒を持つ指はすぐにかじがんでしまうだろう。その朝は霧が深く立ち込め、いっそう暗く肌寒い雰囲気だった。それでも早苗は玉砂利を踏みしめて歩いて行く。お勤めというものは変わらず続く、そういうものだ。
 じゃっじゃっじゃらじゃらと玉砂利を擦る音が規則正しく聞こえる。白い息を吐きながら、早苗は境内を浄めていく。彼女は平時の作業をしながら、肌寒さのせいで妙に冴えてしまった頭でとりとめのないことを考えている。だいたいは同じ神社に居ついている神様のことで、「神奈子や諏訪子もひょっとすると目を覚ましているかもな、早めに切り上げて朝ご飯の準備をしてやった方がいいかな」とか、「いえいえ、寒いからじゃごじゃーせん。あんた達がうるさくいうからでしょうが。」などと、気を散らせていた。
 そうこうするうちにも夜は白む。早苗の作業も仕舞いに迫り、徐々に、暗く蒼褪めた空に明るい兆しがさしてきた。
 と、早苗はその境内に人影を見る。黒々とした色の着物を着た人影がひょろっと佇んでいる。いつからそこにいたのだろう。分からない。よくよくみれば、その人は神社の本殿をためつすがめつしていたようだった。「はて、彼は誰ぞ」と、早苗は箒を動かす手を止め、小声で呟く。声をかけようかと思った矢先、おそらくはその人も気づいたのだろう。人影は振り返り早苗の方に歩み寄ってきた。近づいてみれば、白髪の年老いた男で、渋染めの袴に烏色の外套を着て、姿勢はしゃんとしているが、背は早苗を同じくらいの小柄な男だった。
 「お早いですね」と、つとめて中立に、早苗から声をかけた。老人は軽い会釈で応じて、「お早いですね、お勤めご苦労さまです」と言った。彼女の方も会釈を返しながら、「朝のお散歩ですか」と尋ねる。早苗にとって、はっきりいって見慣れぬ人間だった老人は、「いや、まあふらふらしていたら大層なお社が見えたものですから。」と、老人は世間話風に話す。彼女は、はてしかし何か引っかかるぞ、妖怪変化の類ではないのだが。と、警戒するが、老人はそんなことも露知らず話に興じる風で、「若い巫女さんがおいでとは、大きいところですか」などとのたまう。「ここには大きな神社はございませんよ、ただ私は住み込みでおいてもらっているんです。」と、早苗は幻想郷の人間なら遠からず知るか知っているだろうこともわざわざ口にしてみた。「ああ、そうかい。このお山は静かだけれど、なんだか怪じみて少しおとろしう感じるけどね、平気なのか」と答える老人だったが、彼の言葉の端々からは、彼が幻想郷の人間でないことが素直に指し示されている。早苗はそのうちに老人をただの迷い人かと思うようになり、しだいに思い出話に行き始めた老人に適当な相槌を打つのだった。
 話はそう長くは続かなかった。向こうを向いて遠い目で「昔、孫みたいな子をあやしに外に出てなあ、こういうとこに来たもんだ」としゃべる老人は傍から見れば独り言を言っているように見えた。老人の精神は、いつしか早苗と二人で佇む肌寒い境内から遠く離れているようだった。おいてけぼりを食ったような恰好の早苗は、気づいて欲しそうに手持無沙汰に両手を合わせて息を吹きかける仕草をしかけたが、老人はそれを目ざとく見つけた。「ああ、いけねえ。年寄りは話が長くてね」とそこで唐突に話は終わった。空はおぼろな曙光で満たされ、青から水色に明るく変化していた。早苗は多少慌てた仕草をしながら、「そんなこと。今度は昼間の暖かい時間にでもいらしてくださいな。」と、答えた。もう彼女は、目の前の老人をただの無害な里人だろうと見做していた。これ以上長話をすることもない。一方、早苗がただ切り上げたがっていると思った老人は、「いやあ、楽しかった。白髪三千丈、長生すると、最後に人と口をきいたのがいつだったかも忘れるくらいだからなあ。」とうそぶいてみせる。早苗はただ苦笑して、「そんな妖怪じみたこと言ってちゃいけませんよ。」と言うが、ここにきて寒さが沁みてきたのか、老人は外套の前を合わせ直し、「人間も猫みたいに長生きして妖怪になるのかな。それもいいか。」などと言いながら帰る素振りである。老人を見送るつもりで立っている早苗は、「お帰りは気を付けてくださいね」と促す。老人は最後に早苗の方を見ながら、「ありがとう。巫女様よ、名はなんと仰るのかな」と問うた。「ここでは、みな私のことを早苗と呼びます」という答えに老人は頷きながら、「早苗か、ああ、いい名前だ。」と目を細めた。地平線から、太陽が昇る。光が差しこみ、立ち込める霧の濃度がすっと薄らいだ。急に明るくなった方を向いた老人は、「……これ以上、年寄りの長話に付き合わせちゃいかんね」とつぶやいた。とんでもない、と笑いかける早苗の顔を最後に、老人はゆっくりと歩み去って行った。
 老人を見送った早苗が最後の仕上げと箒を働かせていると、静かな境内に遠く、諏訪子の声が聞こえてくる。今日は珍しいな、こんな寒いのに本当に起きてくるもんなんだな、と思っていると、山の端の太陽から一気に光が射し込み、みるみるうちに霧が晴れていった。突然、彼女は自分の記憶にかかっていた靄も霧消したことに気付いた。あの老人と私は、今朝はじめて会ったのではない。昔、老人は私のことを早苗と呼んでいた、私は老人のことをおじいちゃんと呼んでいた。彼女は呆然と佇んだ。断片的に蘇った記憶が、より深い記憶を引っ張り出してきて、手当たり次第に彼女の脳裏で再生していく。
 なんで「おじいちゃん」はここにいるんだろう?私はいつから「おじいちゃん」と一緒に過ごさなくなったのだろう。それから「おじいちゃん」は毎日何をしていたのだろう。
 当然生じる疑問に、記憶は何も答えを示さない。しかし、彼女が受け入れ難く思いながら想定する答えに、早苗の目はこらえ様もなく涙をこぼし始めた。ここは幻想郷、失われた物が集まる所だ。そこに、「おじいちゃん」は来ていたのだ。彼女には十分に分かっている。それは彼女のせいじゃない。時は過ぎゆくものなのだ。「おじいちゃん」にとって、早苗が一人の孫のような存在だったとしても、彼を含んだ家族の中の一人だったとしても、今となっては失われてしまったものの担い手だったとしても、誰も責めることはできない。風はいつまでも同じようには吹かない。ただそれだけのことだ。そう思っても、「おじいちゃん」が縁側に一人で本を読む姿が頭に浮かぶと、早苗にはもう、かじかんだ手で箒を握りしめたまま、ぎゅっと目をつぶって嗚咽をこらえることしかできなかった。外の世界では風祝の巫女が失われ、早苗もまた失われたのだ。そして早苗がかつていた場所もまた、ほろほろと崩れさっていたのだ。しばらく、早苗は泣いた。失われた物事のために。
 やがて、諏訪子の声がした。早苗の耳にはっきり、二度、三度と彼女を呼ぶ声が届いた。頬を拭い鼻をすすり、早苗はようやく顔を上げると、「はいはい、ここにいますからね」と、声を張り上げ、箒を片手にくるりと振り返った。




文責:えっぴ〜